浜松宿は東海道の中でも規模の大きな宿場だった!
今回は、浜松の歴史の話です。広報はままつ6月号では、江戸時代の東海道と、宿場町としての浜松を取り上げました。住んでいるとあまり意識せずに過ごしてしまいますが、浜松市街地の町割には、宿場町であり、城下町であった浜松の名残があります。
江戸から京都へ向かう東海道は、馬込川を渡って浜松城の大手門まで一直線に向かい、浜松城の濠付近で一度「鍵の手」に曲がって、大手門の前に出ます。大手門があったのは、現在の浜松市中区連尺町のあたり。東海道は、そこから南に伸びていきます。伝馬町や旅籠町、成子坂町(当時の町名)といった東海道沿いの町には、商人や職人が集住してにぎわいました。地名は現在も受け継がれています。
現在の地図と城下町の地図を重ねると、街道沿いに残る短冊状の区画や、寺社の位置などが合致します。見比べてみるのも興味深いですね。
注目は、上の地図に☆印で示している、本陣(大名や公家、幕府の役人が公用で利用する宿泊施設)についてです。江戸時代末期の浜松宿には、本陣が6軒あったという記録が残っています。東海道筋の宿場で6軒あったのは箱根と浜松だけだったそうなので、浜松宿が東海道の中でも大きな宿場だったことが分かります。
本陣などの遺構は、残念ながらその多くが戦災で失われました。かつての城下町の風景は、絵図や古い写真から想像するのみとなっています。
主要な跡地には説明看板があります。散策の際は目印にしてください。
来年の大河ドラマの舞台にもなる浜松。城下町としての浜松に、ますます注目が集まりそうです。広報はままつでも、家康公にまつわる情報を発信するべく、浜松時代のエピソードなどをリサーチしています。こぼればなしがあればまたお知らせします🎵
文:広報はままつ編集室メンバー